ゲームがやめられない時どうしたらいい?

ここ二日くらいメンタル煮詰まっていて、しなければならないことをぶん投げて何をしていたかというと、ソリティア

手首痛いわ。やりすぎか!

セルフツッコミはともあれ、1日終わって「なにしてたんだよ自分」とげんなりする。

他にも、食後の一休みにスマホ落ちゲーに興じてしまう。「この一回でやめよう」「あー、もう一回」「もう一回くらいいいよね」「ダメなんだけどもう一回」

気がつくと30分くらい生産性のない遊びに興じてしまっている。目はかすみ肩は凝る。いいことなんか何もない。

さて。賢明な諸氏が数多の解説を繰り出してくれているこのweb世界に漕ぎ出す前に、今回は自分で仮説を立ててみようと思った。

なぜ無意味だとわかっているのにわたしはゲームをやめられないのか。その前に、状況を整理しよう。そしてそれに対してひとつひとつ考察していく。

  1. ゲームは無意味だとわかっている

  2. ダメダメ、手を出しちゃダメ、という気持ちはある

  3. けれどもちょっとくらいいいよね、息抜きだもの、と思っている
  4. そのちょっとが一回で済まない
  5. そもそもどうしてゲームがやりたくなるのか

1.ゲームは無意味だとわかっている

 わたしのやっているレベルのwebゲーム(落ちゲーやパズルゲーム)は無意味だ。息抜きとしても趣味としても、もう少し何か残るものがあったほうが時間の使い方として望ましいはずだ。ただゲームは目の前にあるモニターとマウス、あるいは指先を使うだけで簡単に刺激を与えてもらえる。自分の指先程度は動かすが、これはずいぶん受動的で楽なものなのだ。

 昨日視聴した勝間和代さんの動画「自分の時間を有効に使うたった一つのコツ」に、

受動的な時間を1日のうち30分に抑える

というフレーズがあり、つまりそういうことなのだと思った。受動的な時間は、例えばのんべんだらりとテレビドラマを見るなどの時間のこと。それを能動的な時間、例えばドラマの代わりに小説を読むなどの時間に代えることで、時間のクオリティがぐんと向上するということ。彼女が常日頃言っている「時間割引率をあげる」ということともつながることだと思う。

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 2.ダメダメ、手を出しちゃダメ、という気持ちはある

 いつも思う。「ダメダメ。またこんなのやってちゃ後で後悔する」

 それなのに、だからこそ?「ゲームスタート」をクリックしてしまう我が指。

 だーいじょうぶだよ。すぐやめられる。そう思ったくせに30分。アホですね。

 そうですよアホですよアホで悪いか。

 と、ここまででワンセット。

 とすると、この一連の流れの中でゲームは、「アホで悪いか」に逃げ込むための道具になっていないか。また、「ダメダメ」と思っているとき、意識はそのゲームに向かっている。どんなに意味がないのか、を考える時に同時にわたしはカードが揃ってクリアする快感をも想像してるに違いない。いや、そうだ。
 ならば、それを考えちゃいけない。1.でゲームは受動的で、有効な時間活用を阻害するものと理解したところだ。では、能動的な何かに置き換えられないか。少なくとも別の何かを選択することはできる。もう少しまともでもう少しましな何か。

 今自分は短期ダイエット中なので、今なら立ち上がって立位でできるストレッチや筋トレ、簡単なエクササイズという代替案がある。そうでないときなら?自分が勇気を感じる詩を一編読むのはどうだろう。格言でもいい。そういえば岡本太郎の言葉集がうちにあるじゃないか。ひとつ解決だ。

 上記の動画の中に、能動的な時間は能動的であるだけに疲れてしまっていつまでも行っていられない、との指摘もある。だらだらと続かせることもなくなるのだ。

3.けれどもちょっとくらいいいよね、息抜きだもの、と思っている

 ちょっとくらいいいんですよ。息抜きだもの。でもそこで問題を感じているのなら別の方法を取らなきゃね。

4.そのちょっとが一回で済まない

 ほらね。問題が生じてるじゃん。

 この項とは直接関係しないが、「やめたいのにやめられない」というのは依存症の症状の顕著な例なのだ。これで、日常に支障がでるくらいやめられないとなると、もうそれは「ゲーム依存」として治療の対象になってしまうのだろう。

5.そもそもどうしてゲームがやりたくなるのか

 子どもがゲームをやりたがるのは、わたしは電気的刺激に触れたいから、だと常々考えている。だからチカチカばんばんと賑やかなバトルゲームが好まれる。ストーリーなんて実はそんなに重要じゃない、ことに子どもには。

 ではなぜいい大人の自分がゲームにはまるのか。そんなにチカチカバンバンしてないやつに。それはきっと小さな達成感らしきものがあるからではないか。そして小さな射幸心。ソリティアなんてまさにそれ。クリアできたら、しかも短時間でできたらすごい、嬉しい、ランキングにもHNが載る。短時間クリアはカードの引きと、自分がクリックしたカードがたまたまラッキーにも正解だったから起こる。きゃー、ラッキー。ですがかつてSMAPも歌ったように、かっこいいゴールなんてあっという間におしまい。しかもこれはかっこいいゴールですらない。だからまた次の「やったー」が欲しい。かくしてわたしはまたもう一度「ゲームスタート」をクリックする。

 こんなことをせずに、自分がやるべきミッションをすこしでもこなしたら、その先の結果に早く到達できるはずなのだ。ただ努力はすぐには反映されないもので、だからこそ「小さな達成」がほしい。そういう心理が働いているのだろう。また勝間和代さんの話になるが、時間割引率のお話の解説で、「人は先の苦労は受容できるが今の苦労は受容できない性質がある」とあった。これもそうなのだ。今ゲームを我慢する苦労と、先で達成されてないことで負う苦労を天秤にかけて、わたしは先の苦労を選択しているわけ。愚かだ。実を取ろう。

6.まとめ

  1. ゲームがなぜ無意味かというと、受動的な時間だから
  2. ダメだ、と思う時に、そのダメな対象のことを考えてしまっている。よりよい代替手段について考えるといい。読書、エクササイズ。
  3. 能動的な時間に変換させたら、「いつまでも行っている」ことはできなくなる
  4. 小さな達成感や小さな射幸心がわたしをゲームに向かわせる。射幸心はともかく、小さな達成感はほかのところで感じた方が有意義。

 ソリティアしたくなったら、立ち上がってエクササイズをしよう。

 自分の未来を考えよう。

 そのほうがよくない?

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